アスタは1995年3月10日に誕生、
2025年3月10日で30周年を迎えました。
これからもお客様に愛されるアスタであり続けるため進化し続けます。

アスタ30周年特別記念展示

田無北口 再開発の歴史展

監修:滝島 俊

はじめに

アスタは今年で30周年を迎えます。
田無はその中心部を東西に青梅街道が走り、江戸時代から宿場町として栄え、明治になると北多摩地区の人々の生活を支える商業の拠点として発展しました。昭和30年頃から人口増加に伴う宅地開発が進み、通勤者が居住する住宅都市へと変貌、田無駅前から青梅街道まで続く「田無駅前通商店街」には多くの店舗が並び、近隣からの買い物客でにぎわっていました。田無駅前を市の表玄関と位置づけるため、昭和40年代に「田無駅北口再開発事業」がスタート。多くの人々の力により1995年にアスタビルが竣工しました。市民からの公募により、ビルの名称を「明日の素晴らしい街 田無」から「アスタ」と命名しました。平成7年(1995年)3月10日のアスタビルオープン日には、あいにくの雨天のなか、約3千人のお客様が来店しました。旧田無市 末木市長、女優の故田中好子さん、ミス東京のほか、関係者によるテープカットが行われました。オープン後3日間の来店客数は約45万人と盛況でした。多くの皆様に愛され、おかげさまでオープン30年を迎えることができました。オープン当時よりスタートした田無駅前の「イルミネーション」は今では冬の風物詩として定着しております。今回の「田無北口再開発の歴史展」を通じ、田無のまちの昔と今をつなぎ、これからもお客様に愛されるアスタでありたいと願い、進化しつづけます。

江戸期~大正末期
1

田無北口再開発の歴史①

江戸初期に青梅街道ができると、江戸への白土(焼石灰)の継場として街道沿いに田無の村が形成され、やがて宿場町として発展しました。
青梅街道沿いには多くの宿屋や店が建ち並び物流の拠点となりました。
明治から大正にかけて、甲武鉄道(現在のJR中央線)の境停車場(現在の武蔵境駅)や、武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)の保谷停車場(保谷駅)ができ、物流の主役は鉄道に置き換わっていきましたが、青梅街道沿いの店は時代に合わせて発展していきました。現在の田無駅付近は桑畑だったようです。

明治末期から大正初期にかけての町並み
昭和初期~終戦期
2

田無北口再開発の歴史②

昭和2年に旧西武鉄道村山線が開通し、田無駅ができました。高田馬場や新宿方面へのアクセスが容易となり、次第に乗客数も増えていきました。
それに伴い、田無駅へ通じる道沿いに商店が建ちはじめ、駅に近い場所に住宅ができ始めました。街道筋から次第に駅方面への開発が進みました。
戦時中には中島飛行機関係の工場や住宅が建てられ、駅周辺の土地利用が増大しました。太平洋戦争末期には駅周辺への空襲も多く、多くの犠牲者も出しました。

1927
開通時の田無駅
【西東京図書館提供】
3

田無北口再開発の歴史③

保谷、田無は中島飛行機武蔵製作所の北方に位置し、下請け工場や関連企業が数多くありました。また、従業員などの社宅、寮なども林立していました。 太平洋戦争末期になると、中島飛行機武蔵製作所を狙った米軍の空襲も激しくなり、ターゲットを外れた爆弾が田無駅付近にも投下され、多くの犠牲者がでました。 昭和20年4月12日の空襲では、50数名もの犠牲者がでて、なかでも田無駅付近にあった防空壕では一度に31名もの命が奪われました。 終戦から12年経った昭和32年(1957)には、爆心地に近い駅前に戦災者慰霊塔として平和観音を建立し、供養しました。田無駅北口再開発により、平和観音は總持寺参道に移築されましたが、再開発事業の一環として交通広場に平和のリングが建設され、戦争の無い平和を誓い続けています。

『八つ手の盆』より(平和観音保存会:平成6年)
移築前の平和観音(1992年)
昭和(戦後)~昭和中後期
4

田無北口再開発の歴史④

戦争が終わると、田無・保谷地区には多くの住宅が建設され、人口も急激に増加しました。それに伴い商店街も活気を取り戻し、とりわけ田無駅北口から青梅街道にかけての商店や、青梅街道沿いの商店は大いに賑わいました。
昭和30年代から40年代にかけては、映画館が3館も存在し、大規模小売店も進出してきたことにより、文化や流行の発信地でもありました。
しかしながら、特に駅北口の商店街はその密集度と道路の狭さから、防災上の問題点も指摘されていました。
そのため、1970年(昭和45)には木部正雄市長のもと、都市整備の「基本構想」を策定、「既成市街地の再開発」が盛り込まれ、田無駅北口の再開開発を検討する動きが開始されることとなり、外部の建築総合研究所に再開発計画立案を依頼しました。

1967
混み合う商店街の道
【西東京図書館提供】
【西東京図書館提供】
1978
青梅街道
昭和中後期~昭和後期
5

田無北口再開発の歴史⑤

1971年(昭和46):旧田無市が駅北口再開発プランの原案を発表。再開発事業の原案となりました。
総工費148億円、田無駅北口の46,500平方メートルに8階~14階建ての高層ビルを建設し、1・2階に商店などを収容し。3階以上を利用して3DK730戸の“駅前ニュータウン”をつくり、人口増を吸収する。駅と高層ビルを空中回廊で連絡し、車と人とを分離する。立体化で余った土地で、バス9台が同時に発着できるバス・ターミナルと、幅16mの道路、広さ6,600平方メートルの市民広場をつくるという案でした。

1971
毎日新聞9月8日号記事
6

田無北口再開発の歴史⑥

1972年(昭和47):原案を基に市案をまとめました。
再開発区域は田無駅北口の都道調布田無線(境新道)の西側約2.5ヘクタールで、この市街地の建物全部を撤去し、駅前に5,700平方メートルの駅前広場を設け、バスターミナルなどをつくる。その北側をショッピングブロック(敷地1.26ヘクタール)とし、地上9階、地下3階の多目的ビルを建設。地下1階から地上3階の一部までを商業スペース、3、4階を会社・事業所、5階以上を住宅用にする。また、2・3・4の各階には市民の広場を設ける。1973年(昭和48)からの5ヵ年計画で、総工費72億円という内容でした。
それに伴い、1972年12月、地元住民の間で『田無駅北口市街地再開発事業検討準備委員会』が発足し、活動を開始しました。

7

田無北口再開発の歴史⑦

1972年の市案は、地元の意見聴取、建設省や東京都との協議などによって修正され、施行区域を若干縮小して2.3ヘクタールとし、駅前広場の歩車道の分離を図るため、駅舎からビルの2階と3階部分を結び、駅前広場の上に歩行者専用のかさ上げ式広場(デッキ)を計画し、ビル3階屋上部分とデッキを接続させ、そこに屋上広場を設けるとしました。
また、再開発ビルは地上12階・地下2階に変更され、地下2階が駐車場。地下1階から地上7階までが商業床、8階が屋上、9階から12階が住宅棟としました。この案は1974年(昭和49)11月1日付の『たなし市報』に掲載されました。
この計画案は1974年12月5日付で建設大臣の認可を受け、都知事が都市計画として決定しました。1975年(昭和50):再開発問題の関心が高まり、いくつも作られた北口再開発関係団体を一本化した『田無駅北口再開発協議会』が設立されました。
関係団体を一本化した『田無駅北口再開発協議会』が設立。しかしながら権利関係の調整や市の事業推進の不満などから1976年5月以降中断してしまいました。

1974
出典:たなし市報 昭和49年(1974)11月1日号
8

田無北口再開発の歴史⑧

1977年(昭和52)9月、市は『田無駅北口再開発実行委員会』の設置を提案し、活動を再開しました。
翌1978年(昭和53)に新たな2案(B案、C案)が作成され、公開されました。B案は田無駅に向かって、前面を地元商店会の営業エリアとするもので、後面を核テナントの大型店としたものです。地元商店の入るビルは、12階建て、地下1階は駐車場、地上1、2階を商店街とし、3階は公共施設、4階から12階までを住宅とし、約130戸を予定するものです。核テナントの入るビルは地下1階、地上5階建てとしてました。C案は地元の意見を取り入れて、設計事務所が設計したもので、境新道にに面して核テナントの大型店、その中間に地元商店街を形成するもので、地元商店街を形成するビルは14階建て、地下1階から地上1、2階は商店街、3階は各種学校などへの貸室、4階から14階までが住宅で、約120戸を予定するものでした。
この委員会で作成された案は、専門家の意見を入れて、核テナント(大型店)と地元商店街が完全に分離される点に特徴がありました。昭和53年度中には事業決定に持ち込みたいとしてましたが、またしても土地権利その他の権利調整が進展せず、北口再開発は具体的進展はみませんでした。

1978
出典:たなし市報 昭和53年(1978)3月1日号
昭和末期~平成初期
9

田無北口再開発の歴史⑨

1985年(昭和60)木部市長に代わって末木達男市長になり、北口再開発事業が再び動き始めました。当時の資料では、仮称「田無PLAZA」となっていたようです。専門店棟は地上12階で、4階~12階は住宅となっていました。センターコートは1階から吹き抜けとなっており、イメージはだいぶ異なっていました。

1985
センターコートイメージ
10

田無北口再開発の歴史⑩

田無駅北口再開発の最終計画書は1989年(平成元年)頃に確定。最終案の再開発ビルの建築規模は、地上17階、地下2階、地下1階から地上3階までが商業床、4階以上が住宅棟と商業棟に分離した複合ビルとなりました。計画地区の住宅、店舗は順次撤去され、駅へのデッキ建設も開始されました。該当地区の店舗はASTA1や建設中のデッキ下などの仮設店舗で営業を継続しました。再開発地区の取り壊しと撤去作業が完了した1992年(平成4)5月、再開発ビルの起工式が行われ、建設工事が開始されました。

外観イメージ図
出典:田無都市計画田無駅北口地区第一種市街地再開発事業 事業概要:田無市都市開発部
工事の様子
仮設店舗
【西東京図書館提供】
11

田無北口再開発の歴史⑪

1994年(平成6)再開発ビルの名称は「明日の、素晴らしい街、田無」の頭文字から「アスタ」とし、アルファベットは「ASTA」としました。アスタの名称は一般市民からの公募を基に制定され、仮設店舗から使用されていました。年末には再開発ビルが竣工し、1995年(平成7)2月には仮設店舗の取り壊しが開始され、駅前交通広場の建設が開始されました。1995年(平成7)3月10日、田無ASTAが開業しました。
オープニングテープカットには、女優の田中好子さんが招かれ、多くのお客様がいらっしゃいました。翌年3月には駅前交通広場も完成し、平和のリング、田無戦災記念碑、非核・平和都市宣言が設置されました。周辺道路の工事も1997年(平成9)3月までに順次完了し、これを以て田無駅北口再開発事業は完了しました。
田無駅北口再開発計画構想から実に四半世紀が経過していました。

1995
アスタ開業

ページトップ